厭債害債(或は余は如何にして投機を愛したか)

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zoom RSS イスラム国(3)

<<   作成日時 : 2014/10/23 08:34   >>

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イスラム国自体の脅威はもちろん大きな国際社会のテーマですが、身近な問題としてその辺にいる日本の若者があえて自らイスラム国に参加して戦闘員として殺戮や誘拐、性的暴行の片棒を担ぐという問題があります。イスラム国ではないとしても自ら志願して他国の紛争の片方の当事者に加担するという行為もあります。いろいろ考えてみたのですがなかなか難しい問題があります。
志願して他国の紛争の片方に加担することがすべての場合においていけないということはなかなか言いづらいです。一つの例が「スペイン内戦」で、文化人を含む多くの人々が反ファシズムのために政府軍側に立って戦った。海外から自ら銃を取って参戦した人も多かったと思います。しかしながら、スペイン内戦の発端などを考えその過程での周辺国の行動やまた最終的にフランコ政権が国際的に承認されたということを考えると、正しいとか正しくないとかは必ずしも明確ではないようにも思えます。ではイスラム国に対する外国人の参加も同じかというと、それは違うと思います。結論から言うとイスラム国の行動がやはり今のイスラム教国家も含めた他の人類の価値観に対する重大な挑戦であるからで、その集団の行動については大多数の人々がNOと言っている。多数決で究極的な物事の善悪が決まるわけではないけれど、ここまで露骨に価値観を踏みにじられると、説得も和解も教育も不可能に思います。つまりもはや「やるかやられるか」という対決関係が不可能となってしまった感があります。そのなかでわざわざ自分は大多数の価値観の敵であるという行動を示す日本(だけではありませんが)の若者にたいしてワタクシを含む既存の価値観側が厳しい対応を取らなければならないと思うわけです。

戦争や紛争そのものは望ましいことではないとしても、何かのために戦うということはどうしても出てくると思います。世界にはどうしても意見の相容れない集団同士の争いはでてきて、さまざまな理由と人の感情のややこしさによって武力を用いた争いになることは避けることはできません。世界から戦争がなくなるといった絵空事を望むより、戦争が必ずあるという前提で物事を考えないといけないと思います。自分たちがその争いの当事者(国対国の戦争であれば国民とか)であれば当然巻き込まれますし、そうでない集団(たとえば反政府勢力)でもその存在が歴史に根差したものであれば、その歴史を共有する(たとえば身内が相手方に痛い目にあっているとか)人々がそういう争いや戦闘に参加してしまうことは、戦闘があるという前提ならばそれは避けられない。
また、明らかに自分の価値観からして、いてもたってもいられず人類としての不正義(とその人が考えるもの)のために立ち上がる、というのもまああるかもしれません(まさに1930年代のスペイン内戦がそう)。しかしこれだって、見方を変えればもしかしたら価値相対主義を徹底すれば、ただただ殺戮行為に参加しているとみなされかねない。この場合のファシズムというのも一部の人には「正義」だったかもしれないからです。少なくともその時代においてどちらが正しいと適切に判断できるかどうか、ワタクシには自信がありません。実際、スペイン内戦でももとはと言えば極左が政権を取ったあたりからおかしくなった。その極左に対抗するのが結果的にファシズムとなってしまったわけであり、最終的にはファシストのフランコ政権が内戦に勝利して世界から国家承認を受けることになる。だから、戦そのものについてはどちらが正義だとか安易なことは言えないし、結局は勝てば官軍です。

結局のところイスラム国の残虐行為や我々の価値観を踏みにじる行為があまりに目に余るということに尽きると思います。そしてもう一つの違和感が、参加する若者にそれほど深い思想や大義がなさそうに思えることです。たとえば自らがもともとイスラム教徒であり、異教徒に長く迫害を受けて苦しい思いをし、イスラムの大義のために異教徒を滅ぼすとかそういうのはまあ思想としては筋は通っているかもしれない。(もちろんワタクシを含む異教徒にとって(多くのイスラム教徒にとっても)危険極まりない人物であり、できれば敵とみなして早期に壊滅させたいわけですが)。しかしそのような背景もないままに残虐行為の片棒を担ぐその軽さと行為の重さとのアンバランスが恐ろしいわけです。その思想に共感するだけならともかく、実際に参加という行動を起こすなら、やはり我々としては何らかの形で抑圧しなければならないと思うのです。思想だけで犯罪が成立しないから、そのために計画的に国外に出るという行為をとらえて処罰することは正しいと思います。外国人ならともかく、日本人の場合は出国を差し止めるべきでしょう。

そして、今回のケースのように歴史的利害の共有や深い思想的背景がないまま参加するというのは、やはり単なる殺人マニアといわれても仕方ないです。そしてそれを幇助する人々は共犯であり、同様に裁かれるべきだと思います。前にも書いた通り、自分探しだか人生行き詰まりだか何だかわからないような理由で紛争地域で銃を取るような人がいます。国対国で宣戦布告をして正式に戦争をやっているなら「正当行為」とみなされる可能性はありますが、そうでなく他国の実効支配がある地域で非公認の集団に属して銃をぶっ放して人を殺す。殺人以外の何物でもありません。金目当てならなおさらです。

日本には立派な刑法という法律があり、「国外犯」(刑法第3条でしたっけ)の規定があります。日本国民が海外で犯した罪のうち一定の類型のものは日本国内で日本の法律で裁くことができます。海外で紛争地域に自ら参加して人殺しをしてけがしたとか何とか言っておめおめ帰国した日本の若者がいましたが、自ら参加したのだから当然正当防衛の要件である急迫不正の侵害があったとはみなされませんでしょうから違法性を阻却することもないでしょう。もちろん実際問題として犯罪の立証は難しいでしょうが、けじめとして社会は彼を「殺人犯」として取り扱うべきだと考えます。本来なら極刑だと思います。そんな殺人犯がなんの咎めも受けないまま大手を振って街を歩いているのです。そしてそういう殺人を殺人と思わない感覚の鈍麻した人間が一人や二人ではないということに大きなショックを覚えたのが今回の事件でした。

スペイン内戦に参加するのは良くてイスラム国はなぜいけないのか?実をいうと結構難しい問いかもしれません。実はスペイン内戦だって微妙です。(本来は他国の人々は中立であるべきだったのかもしれません)。おそらく参加した人はファシズムと言う価値観を絶対に受け入れることができないだけでなく放置すればスペインの外にあるより優れた価値観まで破壊されるという恐れを感じたのだと思います。繰り返しになりますが、ワタクシの中では、イスラム国は人類が長年かけて積み上げてきた「叡智」や育て上げた「価値観」の部分を根底から覆そうとしていると感じます。いわばイスラム国とそのシンパ以外に対して、つまり人類の大多数にとって、彼らは明確な「敵」であるということです。スペイン内戦における政府軍は逆に当時の文化人などにとっては「正義」の側であった。より大きな厄災を未然に防ぐためにファシストの跋扈を許してならないという気持ちにたったものであった。すくなくともどちらが正義とも言いづらい中で、やはり多数の人が感じていた「ファシズムの跋扈を許さない」という価値観にのっとって戦をした。結果としては無駄でしたが、彼らはそれでも一定の多数の思想を代弁していた。イスラム国は真逆であり我々日本人にとっても最終的な脅威となりかねない存在です。だからイスラム国に参加しようという段階でその人は我々の脅威であり社会から排除すべき存在となるということなのだと思います。思想のレベルと行動のレベルは違います。話題になった某イスラム法研究者も、北大の学生を手引きしなければ、純粋な研究のレベルでもっと評価されたかもしれません。どちらかというとそれを生かして現価値観側がイスラム国にどのように対峙すべきかをアドバイスしてくれればよかったのですが、どうやらこの研究者もイスラム国側の価値観に近いことが端々に伺われるうえにこのような行動をとっているので、やはり我々にとっては「脅威」であります。

結局価値観の違いではないか、という問いもありそうです。しかし、だからこそ大多数の人の持つ価値観に反する行動は排除されるべきで、そうした行動を抑制するのがその価値観を共有する国という法的集団の「法律」の一つの役目である、と申しておきましょう。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
はじめて書き込みします。同じような業態(と言ってもボンドのバイサイドですが)に生息しており、実務をする肉体労働者です。
 さて今回の記事の内容には自分も関心、問題意識を持って考えていました。時代時代における正義の対立とその対立に参加する人間の「心模様」や正義感はおっしゃる通り一概に断定できないと思います。
 私も若いころは、スペイン内戦については反ファシズムの統一戦線側に共感してました。新撰組についても「白色テロ」側とみなして長州の攘夷派に思い入れが強かったし、テルアビル事件についても心情的には理解できると思ってました。
 最近の事件では理解不能のことが多く世の中の流れについていけない自分がいるようです。
たとえばタリバンの洞窟遺跡の爆破とか、今回のイスラム国の問題とか。世界観や価値観について全く違う事象が起き戸惑ってしまいます。一元論的な断定もできませんし。
 最後に国債金利がジェノバの最低金利を更新したとき、「うん、この仕事にかかわって歴史的な事象にかかわれた」と思ったらその後、今の金利が当たり前になってしまいオイオイというところです。今度は運用部ショックやVaRショックを超える金利上昇に立ち会いたい(ウソ)

 長々と失礼しました。ブログの更新楽しみにしています。
ボンド
2014/10/23 10:18
ボンドさんコメントありがとうございます。国債金利の例を引かれたように、いまは自分たちの記憶や前例が頼りににならない時代が続いています。だからこそ、最後のよりどころは「良心」とか「価値観」といったものにならざるを得ない。その分対立は解消しがたくなっている、ということでしょうか。
厭債害債
2014/10/27 08:22

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