「われわれは生をむさぼりすぎている」
「選択」という雑誌の5月号におそらく編集者であるところのYさんが書いています。
「選択」という雑誌はもともとかなり「とんがった」オピニオン雑誌であり、多くのメディアの人々が本来のところに書けないのだけれどどうしても書いておきたいという内容を表現する雑誌として立ち上がったと記憶しています。当初「3万人の・・・」と謳っていて読者を限定した販売だったのが、いまではあまりそういうこともなくなったのはちょっとご愛嬌で、記事の内容には時々?が付いてしまうものもあるのですが、全体としてみれば一般に報道されない内容に深く掘り込んだ記事が多いと思います。
さて、タイトルに掲げた言葉は今の高齢者医療の現状を憂えた(過剰診療等によって国の財政などに悪影響が大きく出ていることなど)記事に関するものです。Yさん(って多分編集長の湯浅さんでしょうね)自身がコラムで今77歳であり「ガンを三つほど抱えていて病院通い」だと告白しています。その人が「もし80歳まで生き長らえることがあれば、それ以降は検査も一切止め、発症しても治療は受けず、病院とは縁を切るつもり」とおっしゃっています。お見事。感動しました。
ワタクシもそういう風にすっぱりと言い切りたいものだと常々考えています。ワタクシにも高齢の両親がいます。今のところ幸いにして頭もまだしっかりしており、体も何とか動くのですが、やはり病院通いは欠かせません。毎食後山のような薬を飲んでいます。もちろんこれからもがんばって生活してもらいたいけれど、長男夫婦がそばに居て面倒を見てくれる今の状況は極めて恵まれているわけで、既に老老介護の状況に近くなっているのだから、そういう前提でやっていくのはもう制度として限界に近づいているのですね。そして公的なところで際限なく面倒を見ていくことも、やはり限界が近づいているのだと思います。
Yさんが「生をむさぼりすぎている」と表現されたのは、老人のところだけではないと思います。広い意味でわれわれは生物としての生命が維持されていることに過大な価値を置きすぎているのではないか、と感じます。人というのはいつかは死ぬ。そのことを前提に自分にとって、そして回りにとってよりよい生き方を模索する。それの積み重ねが人間社会のすばらしさであり面白さであるとおもっています。つまり「長生き」そのものに価値を見出す必要はない。生きていて何かをやりたいという気持ちと能力がなければ長生きしてもしょうがないと思います。そういうものがなくなってしまえば、若者であっても自殺してしまうし、現実に今の世の中ではそういう事態が増えているようにも思えるのですが、実際のところ、必要以上に「生をむさぼる」ためにかかる広い意味でのコストが社会の問題をより解決困難な構造的なものへと深化させてしまっているのではないか、と思うこともあります。
こういうことを言うと、おまえはヒトラーかとか重度の障害を持った人には生きる権利はないというのか、という風に批判されるかもしれませんが、そんなことを言っているつもりはさらさらなく、ここでYさんが取り上げたケースも不必要な「高齢者の延命治療」のことです。ただ、一般論として、平和な時代しか知らないわれわれは「生きる」ことがあまりに当然のことでありその「生」に必然とも言える「有限さ」の意味を見失ってしまいつつあるのかもしれません。
Yさんのおっしゃることは常々ワタクシの考えていたこととまさに一致するのですが、実際問題、本人の意思ではどうしようもないケースも出てくるでしょう。むしろそういうケースが増えてくるのでしょう。そのとき周囲や制度がどのように対応していくのか、もともと重い問題ですが、これからより先鋭的な決断を迫られるのかもしれません。ワタクシも当事者のゾーンまでもう少しです。
「選択」という雑誌はもともとかなり「とんがった」オピニオン雑誌であり、多くのメディアの人々が本来のところに書けないのだけれどどうしても書いておきたいという内容を表現する雑誌として立ち上がったと記憶しています。当初「3万人の・・・」と謳っていて読者を限定した販売だったのが、いまではあまりそういうこともなくなったのはちょっとご愛嬌で、記事の内容には時々?が付いてしまうものもあるのですが、全体としてみれば一般に報道されない内容に深く掘り込んだ記事が多いと思います。
さて、タイトルに掲げた言葉は今の高齢者医療の現状を憂えた(過剰診療等によって国の財政などに悪影響が大きく出ていることなど)記事に関するものです。Yさん(って多分編集長の湯浅さんでしょうね)自身がコラムで今77歳であり「ガンを三つほど抱えていて病院通い」だと告白しています。その人が「もし80歳まで生き長らえることがあれば、それ以降は検査も一切止め、発症しても治療は受けず、病院とは縁を切るつもり」とおっしゃっています。お見事。感動しました。
ワタクシもそういう風にすっぱりと言い切りたいものだと常々考えています。ワタクシにも高齢の両親がいます。今のところ幸いにして頭もまだしっかりしており、体も何とか動くのですが、やはり病院通いは欠かせません。毎食後山のような薬を飲んでいます。もちろんこれからもがんばって生活してもらいたいけれど、長男夫婦がそばに居て面倒を見てくれる今の状況は極めて恵まれているわけで、既に老老介護の状況に近くなっているのだから、そういう前提でやっていくのはもう制度として限界に近づいているのですね。そして公的なところで際限なく面倒を見ていくことも、やはり限界が近づいているのだと思います。
Yさんが「生をむさぼりすぎている」と表現されたのは、老人のところだけではないと思います。広い意味でわれわれは生物としての生命が維持されていることに過大な価値を置きすぎているのではないか、と感じます。人というのはいつかは死ぬ。そのことを前提に自分にとって、そして回りにとってよりよい生き方を模索する。それの積み重ねが人間社会のすばらしさであり面白さであるとおもっています。つまり「長生き」そのものに価値を見出す必要はない。生きていて何かをやりたいという気持ちと能力がなければ長生きしてもしょうがないと思います。そういうものがなくなってしまえば、若者であっても自殺してしまうし、現実に今の世の中ではそういう事態が増えているようにも思えるのですが、実際のところ、必要以上に「生をむさぼる」ためにかかる広い意味でのコストが社会の問題をより解決困難な構造的なものへと深化させてしまっているのではないか、と思うこともあります。
こういうことを言うと、おまえはヒトラーかとか重度の障害を持った人には生きる権利はないというのか、という風に批判されるかもしれませんが、そんなことを言っているつもりはさらさらなく、ここでYさんが取り上げたケースも不必要な「高齢者の延命治療」のことです。ただ、一般論として、平和な時代しか知らないわれわれは「生きる」ことがあまりに当然のことでありその「生」に必然とも言える「有限さ」の意味を見失ってしまいつつあるのかもしれません。
Yさんのおっしゃることは常々ワタクシの考えていたこととまさに一致するのですが、実際問題、本人の意思ではどうしようもないケースも出てくるでしょう。むしろそういうケースが増えてくるのでしょう。そのとき周囲や制度がどのように対応していくのか、もともと重い問題ですが、これからより先鋭的な決断を迫られるのかもしれません。ワタクシも当事者のゾーンまでもう少しです。
この記事へのコメント
自分が健康なうちに、
自分に対する延命治療や尊厳死に対する考えを、
近親者に明確に示しておくことからはじまるのかな、
と。
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=36609
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6/2に、
「『健康寿命』厚労省が初推計」
なるニュースが流れてましたが、
今回のエントリと被っている感があるのは、
偶然?
ただ世の中 生を貪りたくても 貪ることすら許されず それでも一縷の希望を持って 治療されている方がいるのも 事実です。
生きること それはその個人の個性みたいなものだと思いました。