ライフセトルメント(生命保険契約の譲渡)をベースにした証券化商品
http://www.cnbc.com/id/32707038
以前にライフセトルメントについてエントリーをあげて、まあ倫理的な問題の大きいことを認識しつつ、工夫の仕方によってビジネスになりうるという話をしたが、その後景気がさらに落ち込むにつれ、保険契約者の側からのニーズが高まってきて生命保険の証券化ビジネス化の話が進んでいるようだ。つまり、保険料を払えないのだけれど、解約するよりも手取り金が大きくなる契約譲渡に向かう契約者のニーズが多くなっている、ということだろう。
以前にも書いたが、基本的にはこういうビジネスはモラル的にはかなり問題がある。たとえば死亡保険を証券化したものであれば、たくさんの人が早く亡くなるほどリターンが高くなるのであり、「人の早期の死を願うインセンティブ」が生まれるからだ。またそれに伴って組成時の値段のつけ方やもしかしたら生死そのものについても詐欺的な行為が行われる可能性もある。
保険というのはもともと「被保険利益」の存在を前提とするのだけれど、譲渡してしまうという行為は、その被保険利益を保険事故が起こらない状態で一部先取りさせて被保険利益のない状態で保険を存続させることだ。つまり本来の保険が予定していた経済的な仕組みを大きくゆがめてしまうのである。
ただ、逆に生存保険(たとえば年金)の証券化はどうだろうか?自らが受け取る将来のキャッシュフローの一部を、生活に困らない範囲で処分して今必要な現金支出に当てる、というのは、借り入れを起こすよりは健全にも思える。ただ、これらの場合の多くは逆に予定されている解約返戻金より契約者が受け取るお金が少なくなる可能性も多い。とくに健康に若干の不安がある被保険者である場合は、想定される受け取り期間が短くなるとみなされて、その分買取価格が引かれるだろう。
投資家にとっての問題点も指摘されている。それは、サブプライム証券同様に、格付けにその信用力を依存しようとしていることだ。一部投資銀行は、SPやMoodysがさすがにこういうビジネスにもはや及び腰になっていることをから、小さな格付け会社の格付けを取得しようとしているのだという。また、一般的には医学が発達して寿命は延びる傾向にあるため、投資家にとって意外に損失をもたらす可能性も少なくない。とりわけ、束ねた保険の被保険者が同じような病気で余命が少ないと判断されている場合、その病気に対する劇的な治療法が開発されたとき(たとえばエイズ)投資家が大きな損失をこうむることになるといわれている。エイズのケースでは実際損失をこうむった投資家が多かったという。
一部の関係者はライフセトルメント証券化商品を他の金融商品との相関が小さいためポートフォリオに組み入れるのにふさわしいと薦めているようだ。しかし、このような商品を「分散」とかポートフォリオ効果とかいう観点でしか把握できなくなったら、まあ人間として終わっているかもしれない。本来は人が医学の進歩で人が長生きできるようになることを祈らなければならないのに、その逆を願うような商品をリスクリターンという観点だけで取り扱うことには強い違和感を覚える。
いずれにしても、顧客ニーズと倫理と契約自由の原則とのぎりぎりの境界線にあるビジネスではあろう。
以前にライフセトルメントについてエントリーをあげて、まあ倫理的な問題の大きいことを認識しつつ、工夫の仕方によってビジネスになりうるという話をしたが、その後景気がさらに落ち込むにつれ、保険契約者の側からのニーズが高まってきて生命保険の証券化ビジネス化の話が進んでいるようだ。つまり、保険料を払えないのだけれど、解約するよりも手取り金が大きくなる契約譲渡に向かう契約者のニーズが多くなっている、ということだろう。
以前にも書いたが、基本的にはこういうビジネスはモラル的にはかなり問題がある。たとえば死亡保険を証券化したものであれば、たくさんの人が早く亡くなるほどリターンが高くなるのであり、「人の早期の死を願うインセンティブ」が生まれるからだ。またそれに伴って組成時の値段のつけ方やもしかしたら生死そのものについても詐欺的な行為が行われる可能性もある。
保険というのはもともと「被保険利益」の存在を前提とするのだけれど、譲渡してしまうという行為は、その被保険利益を保険事故が起こらない状態で一部先取りさせて被保険利益のない状態で保険を存続させることだ。つまり本来の保険が予定していた経済的な仕組みを大きくゆがめてしまうのである。
ただ、逆に生存保険(たとえば年金)の証券化はどうだろうか?自らが受け取る将来のキャッシュフローの一部を、生活に困らない範囲で処分して今必要な現金支出に当てる、というのは、借り入れを起こすよりは健全にも思える。ただ、これらの場合の多くは逆に予定されている解約返戻金より契約者が受け取るお金が少なくなる可能性も多い。とくに健康に若干の不安がある被保険者である場合は、想定される受け取り期間が短くなるとみなされて、その分買取価格が引かれるだろう。
投資家にとっての問題点も指摘されている。それは、サブプライム証券同様に、格付けにその信用力を依存しようとしていることだ。一部投資銀行は、SPやMoodysがさすがにこういうビジネスにもはや及び腰になっていることをから、小さな格付け会社の格付けを取得しようとしているのだという。また、一般的には医学が発達して寿命は延びる傾向にあるため、投資家にとって意外に損失をもたらす可能性も少なくない。とりわけ、束ねた保険の被保険者が同じような病気で余命が少ないと判断されている場合、その病気に対する劇的な治療法が開発されたとき(たとえばエイズ)投資家が大きな損失をこうむることになるといわれている。エイズのケースでは実際損失をこうむった投資家が多かったという。
一部の関係者はライフセトルメント証券化商品を他の金融商品との相関が小さいためポートフォリオに組み入れるのにふさわしいと薦めているようだ。しかし、このような商品を「分散」とかポートフォリオ効果とかいう観点でしか把握できなくなったら、まあ人間として終わっているかもしれない。本来は人が医学の進歩で人が長生きできるようになることを祈らなければならないのに、その逆を願うような商品をリスクリターンという観点だけで取り扱うことには強い違和感を覚える。
いずれにしても、顧客ニーズと倫理と契約自由の原則とのぎりぎりの境界線にあるビジネスではあろう。
この記事へのコメント
かつて、私自身ポートフォリオの観点からライフインシュアランスの購入を真剣に考えていたもので、改めて考え直す契機となり、今回コメントしました。
本文でもご指摘のように、倫理の面で、所謂普通の投資商品とは違う点は、当時から認識があり、まさしくその点について社内の上層部を説得できる自信がなかったことから、結局その当時、購入をあきらめざるを得なかったというのが、私の場合の経験です。
しかし倫理面という話だけで強調されると、例えば保険会社のようなところは、保険商品では人の長寿を願い、年金商品では人の短命を願うような面もあるはずで、それと同じようなもので、投資としての対象からあえて外すほどのことではない、と当時も、今も考えているのですが、そのあたりは如何お考えでしょうか?
また、例えば所謂ハゲタカ系のアクティビスト・ファンドなども、言い様によってはその企業で働く人々の生活基盤を脅かすという点で、ドイツのメルケル首相とかは、非常に嫌っているように思え、本文最後にある、「顧客ニーズと倫理と契約自由の原則とのぎりぎりの境界線」というのも、社会や文化、風土といったものにも左右されるものと考えますが、そうした点については如何お考えですか?
報酬等の規制強化に対しても抵抗しているようで、ガイトナー長官に対して議会で、「規制によってinnovationが失われ、競争力がなくなる」とほざく業界代表の言葉を聴くと、今あなたたちに必要なのは、競争力よりも、謙虚とか誠実とかいう言葉ではないですか?と言いたくなります。
彼らのお金に対する執念と知恵をもっと他の分野で発揮させてやれないものかと思いますが、、、
青臭いですね、、、失礼しました。
なお、顧客にとって解約よりもたくさんのお金がもらえる、という部分は本来は保険会社の商品設計において解決する問題だろうと思います。
救いは死にしか無い。
倫理とは死を基盤とする。
何故なら絶対確実な将来は私は死ぬというコトだけだからね。
倫理とか正義というものは、あなたがしたり顔で断言できるほど底の浅いものじゃないでしょう。
人それぞれの倫理や正義があるからこそ、世界は複雑であり、それに由来する難問が山積しているのだから。
kazzt氏は、よくこちらのブログで御自分の正義を講釈されているが、世界はもっと多面的だということを理解されたほうが、物の見方が広がるのでは?
masさんどうもです。御意でございます。
たかが金程度で死を扱うことなんか出来はしない。
死と金は確かに近い関係にあることは認めるけど・・・
あくまでも金(あるいはそれを無限収集したがる病癖と)は死を恐れることしか出来ない人間の無残さの象徴に過ぎない。
死をやさしさと感じることが出来ぬ存在の乖離がどこに有るのかが僕には理解できない。
マクロ経済の問題だと思います。
つまり、次なるバブルを設定するにはこのようなふざけた内容の証券化にまで踏み切らねばならない現状の問題です。
つまり、倫理観にかなうかどうかの議論は結果的に空転せざるを得ないのです。
なぜならば、そこにこの問題の本質はないからです。
お金をかき回さなければ世界経済が立ち行かなくなるので証券化できれば何でもよいのですから。
別段、生命保険の証券化ではなくても天候デリであってもそれを証券化しなければならない最大の理由は、通貨経済の流動性確保にあるからです。
倫理を持ち出すのは重要なことかもしれませんが、そのような議論を元に是非が決定される種の問題ではないと思います。
私が危惧するのはその精神がロジックで止められるかということです。
「ロジックと倫理」は「グローバルとローカル」くらいかけ離れた存在だと思います。
ルールだけで統制することは極めて困難なことです。
ルールで決まっていなければ何をやってもよいことになるのですから・・・。
そこで倫理を語ることになるのですが、これが人によって異なるので解決はさらに困難になります。
いわゆる、総論賛成各論反対の壁にぶつかってしまう気がするのです。
この現在世界に流れている経済システムを成り立たせている精神を見るたびに無力感に襲われるのは私だけでしょうか。
結局は第二次欧州戦争のような事態になる気がするのは私だけでしょうか。
失業者を軍隊で吸収し、戦争という名の公共事業を勃興させ、結果として世界GDPを削り、需要を生み出す。
これを繰り返すしか今の世界経済危機は解決困難な気すらしてきます。
生命保険の証券化などのインチキ策が尽きたときがそうなる時なのかも知れません。